Here is the interview with Atsushi Sakai, the programmer of several Sunsoft games in the mid-late 80s. It appears in the DVD "Game Maker: Sunsoft", newly-released by the producers of Game Center CX.

GlitterBerri has translated this interview into English: http://www.glitterberri.com/developer-interviews/the-spirit-of-sunsoft/

Click here for a machine translation of the interview. The interviewer's words are in blue; Sakai's in black.

「サンソフト魂」
スーパーマリオに挑戦した『アトランチスの謎』をはじめ、ハイテクな技術でゲーム業界に『いっき』の嵐を巻き起こした風雲児ことサンソフト。
その熱気あふれる黎明期からゲーム作りの現場に立ち会い、「子ガメカセット」の生みの親でもある酒井敦史氏に「サンソフトの謎」を聞く!
 
時代の先を行きすぎていたサンソフト
    酒井さんはサン電子(サンソフトはブランド名)に入社される前に、欽ちゃんの仮装大賞で入賞されてるんですよね。
    ええ、『世界七不思議』がテーマでしたね。高校の時にパソコンを買う資金が欲しかったんですが、学校がアルバイトを禁止していたもので、賞金なら校則に引っかからないだろうと。
    「世界の七不思議」というのが、何気に『アトランチスの謎』を先取りしてますよね(笑)。ちなみに、どんなパソコンを買われたんでしょう?
    NECのPC-8801という機種です。『I/O』(工学社)や『マイコン』(電波新聞社)などのプログラミング雑誌を読んで、プログラムの独学をしましたね。もっとも、マシン語(機械が直接理解できる言語)は難しくて、もっぱらBASIC(人間に分かりやすいプログラム用言語)でゲームを作ってましたけど。
    そしてサン電子に入社されたわけですが、すでに社内ではファミコン用ソフトの開発が始まっていたんでしょうか?
    そうですね。「サンソフト」事業部が立ち上げられたばかりの頃で、上司だった吉田社長(当時は課長)に直談判して、ゲームの開発部隊に入れてもらったんです。
    サンソフトが参入した当時は、まだサードパーティ(任天堂以外のソフトメーカー)は少なかったですよね。ソフトの開発は外注じゃなく、社内のスタッフで?
    はい、自分たちでやってました。
    まだファミコン用の開発機材も満足にない時代でしたから、かなり高い技術力があったんですね。
    もともと弊社は技術系の会社なんですよ。立石電気(現オムロン)の下請けで自動券売機を製造したり、業務用のゲーム機やパチンコ店向けのコンピュータも開発してましたし。それに海外向けですが、80年代中には「SUNTAC」のブランドでIBM-PC互換機も開発・販売してたんです。ちょっと時期が早すぎたらしくて撤退したんですけど、うちはそういうのが多いですね。
    DOS/Vパソコンのブームが90年頃ですから、時代のはるか先を行ってますよね(笑)。酒井さんご本人の話に戻ると、初めて開発に関わったゲームは?
    『いっき』ですね。先にゲームセンター用に出ていた業務用のゲームを、ファミコンに移植したんです。まだ社内にデザイナーという役職がいませんでしたので、自分が絵を担当しました。 ドット絵をプチプチ打つことが初仕事になりましたね。その次が『アトランチスの謎』です。
    『ゲームセンターCX』でも有野課長をさんざん苦戦させたタイトルですよね。これはどの部分を担当されたんでしょう?
    メインプログラマー兼企画者の人がいて、その補佐、という感じです。『いっき』のようにデザインやドット打ちもやりましたし、サブプログラマー(メインプログラマーを手助けするプログラマー)もやってます。出てくる敵キャラをすべて担当しましたね。いろんな個性を出したくて、たとえば弾を撃つと隠れてしまうキャラクターとか、何回も当てないと倒せないやつとか、いろいろと動きのバリエーションを考えましたね。
    『アトランチスの謎』といえば、「あのスーパーマリオを超えた!!」というキャッチフレーズが印象に残りますよね。やはり企画段階から「スーパーマリオ」は意識されてたんでしょうか?
    いえ、ナムコさんの『パックランド』ですね。メインプログラマーがかなり意識してまして、それを超えるものを作りたいという思いがあって。とにかくステージがたくさんあって、謎がいっぱいあるゲームにしようと。隠れワープゾーンだったり、普通のゲームではやらないような枝を入れたかったんですね。
    ああ、『パックランド』の方でしたか!まさに「不思議なことが当たり前」(『パックランド』のキャッチより)のゲームでしたもんね(笑)。ぜんぶで101面もゾーン(ステージ)があって、デザインも大変だったんじやないですか?
    それはメインの方が管理されていました。メモをどっさり作って貼り合わせて、この面とこの面がつながっているとか。当時のゲームというのは、たとえば4面をクリアすると、また次の4面のくり返しというのが普通の作り方でしたが、このゲームでは、101面という大きな全体があって、どんどん先に行くと違う世界が出て来る、という構成を目指しておりました。そのために1本道のルートにせずに、1つのゾーンの中に複数の分かれ道があって、プレイヤーに選択してもらったり、元に戻ったり。そうやって何回でも遊べるようなものにしたかったんです。
    実際、ステージ数は「スーパーマリオ」を超えてますもんね。その中で、酒井さんが苦労されたことは?
    いろんな作りのステージがありますから、ここだと敵キャラがハマっちやって動けなくなるから出すことはできないとか、別のステージと同じように見えないようにするなど、そういう調整を100以上のステージを通してやるのは、苦労させられましたね。
    まだROMカートリッジの容量が小さくてデータに余裕がなかった頃なのに、ドーンとでっかく『アトランチスの謎』と出てくるオープニング画面もすごかったですよね。
    当時はタイトルでお客さんの目を引くことが大事だったんですね。まだゲーム雑誌もそんなになかった頃ですから、ゲームショップの店先で流されるデモ画面で、どれだけアピールするかとかも重要でした。たしかにタイトルを小さくしていれば、データも節約できた分だけ、もっとステージ数が増やせたかもしれません。
ファミコンがしゃべった!
『水戸黄門』の音声合成
    サンソフトさんはオープニングでむちゃくちゃ頑張っていたイメージがありますよね。ゲーム本編と関係ないから手を抜いても良さそうなのに、いきなりファミコンがしゃべったり(笑)。
    ゲーム一本につき、メインが一人でサブが1〜2人の小所帯でしたから、かなり好きに作れたんですね。お互い、隣のチームをビックリさせてやろうという。企画書もなかったし、社内コンペもなかったですから。
    「これ、できましたよ」と上がってきたものが発売されるという(笑)。業務用ゲームからの移植は何本かありましたが、どれも完成度が高かったですよね。普通はにれ、ファミコンじゃ無理!」と尻込みしそうですけど。
    できない、という話は全く出ませんでしたね。「やれるのが普通」ということで話が進んでいて(笑)。
    「えっ、この移動基地ってファミコンで動くの?」と腰が抜けそうになったことがありましたよ(笑)。
    ある日会社に出てきたら、いつの間にか動くようになってたのかな?ファミコンのスプライト(キャラクターを動かす能力)では限界がありますから、バックグラウンド(背景)を組み合わせて開発してました。
    サンソフトさんの技術力の高さはやっぱりシビれます(笑)。音声の話が出ましたが、『水戸黄門』で格さんが「この紋所が目に入らぬか!」とクリアな声でしゃべったのは驚きました。
    「水戸黄門』は初めてファミコンで音声合成を実現したソフトですね。当時、ファミコンで声を出すことはかなり難しかったんですけど、やはり水戸黄門というと声がなければ雰囲気が出ないですから。
    その技術の開発はどなたがされたんでしょう?
    新しい技術といっても社内で何もかもできるものじゃないですから、海外の音声合成の権威Dr.MOZEの技術を使用して実現しましたね。今みたいにインターネットがある時代じゃないですから、こちらと向こうとデータのやり取りが大変で、1回(ROMを)出しても返ってくるまでに非常に時間がかかって。それで実際に聞いてみたらなんか違うな、ということでもう一度出す。そういったくり返しをしなければいけなくて、かなり苦労しましたね。
    前に日本版のMS-DOS(Windows以前のPC用基本ソフト)に関わった方にお話を聞いたことがあるんですが、やはり海外とのデータのやり取りが大変だったそうですね。出張に行く人に、ついでにディスクを運んでもらったり(笑)。
    そうですね、昔は大変でした。でも、そうやってこだわった結果、いいものができたと思います。
    『いっき』といい『水戸黄門」といい、なぜか時代劇づいてますよね。『東海道五十三次』で何かエピソードなどありますか?
    やはり『いっき』のキャラクターを出そう、という話になったことでしょうか。『いっき』は爆発的に売れましたので、キャラクターを大事に育てていきたいと。『東海道五十三次』の中でも同じキャラを登場させたりしてます。
    『いっき』はサンソフトにおけるマリオみたいな看板タイトルだったんですね。なぜか『アトランチスの謎』の主人公の師匠も、『いっき』の権べさんですし(笑)。
きれいな絵にこだわった『リップルアイランド』
    酒井さんご自身が企画を立てて作られた初めてのゲームはなんでしょう?
    『リップルアイランド』ですね。このタイトルでは企画も出しましたし、シナリオやプログラム、すべてのことをさせてもらいました。
    あの品薄でプレミアムが付いた伝説のソフトですか! ほのぼのした作風もサンソフト作品としては珍しかったと思いますが、どうしてアドベンチャー方式になったんですか?
    私自身が、激しいアクションゲームはあまり得意ではなかったもので、じっくりと遊べるゲームを作りたかったんです。その頃、ちょうどエニックスさんから『ポートピア連続殺人事件』が出ていたんですよ。それと同じようなシステムで、さらに上を行くゲームにしようと思いまして。
    ドット絵が可愛くなったというレベルを超えていて、アニメのようなきれいな一枚絵が表示されるようになりましたよね。
    『アトランチスの謎』の頃に専門のデザイナーを募集したんです。やはりキャラクターデザインやパッケージのイラストを描ける専門の人材が欲しいということで。
    『マドゥーラの翼』のキャラクターデザインをされた、もりけんさんも有名ですよね。そのかいあって、『リップルアイランド』の絵はファミコンの水準を超えるデキでしたよね。細かい部分が動いたり、芸も細かくて。
    ええ、絵を美しく描くことにはとことんこだわりましたね。絵が動くと物語への感情移入も違ってきますから。できるだけ多くの絵を入れられるよう、RAM構造の基板を作成して圧縮技術を工夫して、やっと実現にこぎ着けたんです。
    「ポートピア」を初めとしてほとんどのアドベンチャーは基本的に一本道だったと思うんですが、「リップルアイランド」は複数の終わり方がある「マルチエンディング」方式なんですよね。
    そうですね。普通のアドベンチャーは、どんな道を選んでも最終的には一つの完結を迎える形になっていたところを、遊んだ人によって色んな結末を迎えるようにしたくて。途中で横道にそれて、ぜんぶで4つのエンディングに別れるんです。それでも20時間ぐらいで解けるんですが、私も楽しんで作らせて頂きました。
子ガメカセットを実現できてしまう技術力
    その後はファミコンから離れて、『弁慶外伝』などPCエンジン用ソフトの開発部署に移られたんですか?
    はい、東京事業所が立ち上げられて(サン電子の本社は愛知)そちらに移りました。でも、自分が残していった『なんてったって!!ベースボール』の企画が商品化されたときは驚きましたね。
    ファミコンへの置き土産ですか(笑)。
    知らないうちに他のメンバーがどんどん進めていて、気が付いたらモノが出来ていたという感じですね。担当したプログラマが野球の事を知らなくて、打ったら3塁に走りだしたりと苦労したと聞いています。
    すでに野球ゲームがたくさん出ている中で、どういうコンセプトを打ち出していこうと思われました?
    当時、他のメーカーさんも野球ゲームを出してたんですけど、毎年毎年、選手の打率だったりチームの構成が更新されるたびに買い直すのは、お客さんにもけっこう負担だと思ったんです。そこで「子ガメカセット」という仕組みを取り入れれば、その年に新しくなったデータを安く提供できるし、長く遊べるようになるなと思ったんです。
    小さな「子ガメカセット」を、本体の「親ガメカセット」の背中にセットする方式ですね。他のメーカーだったら、アイディアを思いついてもできなくないですか?
    サン電子はファミコン用カセットもぜんぶ自前で製造していましたから、技術的に可能だったんでしょうね。他のメーカーさんだとハードをいじることまではできなかったと思います。
    やっぱり、とことんテクノロジーに強い会社ですよね。『ラフ・ワールド』や『ギミック』『バトルフオーミュラ』などの音作りや高度な画面処理もハンパではなかったですし(笑)。その一方で、『へべれけ』のようなシュールな作品が生まれたのも幅が広いですよね。
    『へべれけ』は東京の開発室で生まれたゲームなんですけど、可愛らしいキャラクターに反響も大きかったですね。会社としても、このキャラをもっともっと定着させていこうと。当時のサンソフトはシリーズものが少なかったんですけど、『へべれけ』に関してはシリーズを作っていったんです。最初はアクションゲームだったのが、その後はレースものだったり、パズルものだったり、いろんなジャンルで『へべれけ』を活躍させて登場させましたね。
    普通のメーカーだったら無難にアクションゲームの続編にしていくところを、毎回ジャンルが変わってるのがサンソフトさんらしいですね(笑)。最後になりますが、酒井さんにとって「サンソフト」の全盛期はどういう時代だったと思われます?
    学生の頃から作りたかったゲームも作れましたし、いい時代でしたね。どの開発チームの作品も、毎朝出社するたびに進化していってましたし、非常に楽しかったです。
    本日はありがとうございました!
 
ATSUSHI SAKAI 酒井敦史
サン電子株式会社1985年入社。幼少時代からゲーム作リヘの興味を抱き、独学でゲーム制作に没頭。ファミコン用ソフト開発に乗り出したばかりのサン電子入社後、ゲーム開発部門へ。「いっき」「アトランチスの謎」といったサンソフトを代表する人気作品の開発に携わる。現在はパチンコ関係の業務に携わっている。

Transcribed by Chris Covell.